人を褒めること
最近は人を褒めることに注力している。
仕事がびっくりするほどできない後輩がいるという背景もあるが…。
これはもう私事。愚痴でもある。
社会人経験なしで中途採用に至った彼は、仕事以前に人間関係が壊滅的にダメだった。学生時代、友人がおらず、部活、サークル、アルバイト経験もない。唯一あるのはネトゲの仲間の繋がりだけ。
しかしながら、彼には理想があった。それは働ける、格好良い自分。仲間に慕われ、頼られる自分。
まあ、予想通りというか何というか、社内では彼が思っていた通りのレスポンスを受けられないのだが。
圧倒的に足りない対人スキル。
しかし何が駄目なのかわからない彼は、行き詰まり、上手くできない自分を責め、また、褒めてくれない周囲を疎む。
上司始め先輩社員の私達も指導の仕方に困るのだ。なぜか。それは、本来ならば学生時代に無意識的に習得するものだから。或いは、何らかの痛みを伴った経験をし、そこから学ぶ。その痛みの経験は当の本人にしか寄与されない。そんなものを教えることは並大抵の人間ではできないと感じる。教育に特化された人間でもなければ。
あれだな。空気を読む、ということが壊滅的に出来無いってことだ。空気とは何か?を教えることが出来ない上司、先輩。空気とは何かを知らない後輩。空気の種類も、使い分けも、感じ取り方も。
その後輩はこう主張する。
確かに自分は出来ていないかもしれない。だけど頑張った。だから、頑張った部分は認めて欲しいと。
お笑い種だなあ、と思う。ゆとり教育を絵に描いたような、ゆとり世代への敵意を煽るようなその思考。私もゆとり世代で、ゆとり的思考だと自負しているが、それでも、その時ばかりは笑う他なかった。
出来ていて当たり前の事を褒める。
褒めた上でこちらに対価があれば褒めちぎるんだけど、言ったことは忘れる、言われたことはやらないで、何を褒めるのかと。
…というのは褒めの出し惜しみらしい。褒める本みたいな本で読むとそういうことらしい。
そういう後輩に対して、最近は前向きに褒めることにしている。ついでに思いっきり責めることも同時にしている。
思いっきり責めるというのは、「前にもこれしちゃだめって言ったよね?」という陰湿な注意はしないということだ。陰湿だと思う。言ったよね?なんて特に最悪の部類だと思う。なんで疑問系なんだ?しないでって言ったじゃん!の方がマシだ。裏を含ませるだけ含ませて、疑問系の先に何を求めているんだ。罪悪感か?謝罪を求めてるのか?はっきりしない。
「何度でも言う。これはしてはいけない。君はいつも忘れてしまうようだけど、私もしつこく何度でも言うから、安心して間違えてくれ。私は何度でも永久に同じこと言ってやるからな!」
と、敢えて前向きに失敗自体を責めずに、こちらが真剣であることを伝えることにしている。上手く行くかはわからない。結果が出たら本にして出そうと思う。
褒めることはどんなに些細な事でも褒める。承認欲求を満たし、モチベーションを上げて貰うために。全部褒められないので、その日のうちまとまった5分間を彼に着目して、褒める部分を見つけては、彼が訪ねて来た際に軽く言葉をかけることにした。
とかなんとか人を褒めることに集中していたら、私も人から褒められて育てられた事を痛感した。褒めるということは体力がいると実感した今、私を褒めてくれた人たちは、こんなに大変なことを意図的にやっていたのだろうか。それとも、無意識的に習得したスキルを何の意図もなく、無意識的に使っているのだろうか。
どちらにせよ、それで救われたこともあったし、嬉しいと思ったことも多い。些細なことでも。
頑張っていたね。良かったよ。
そんな単純な言葉で、ああ、見ていてくれていたんだな。そう思えた。褒めてくれて当たり前だと、心のそこからそう思っていたわけじゃないが、そこに感謝の気持ちはなかったと思う。勿論、褒められることに関して鈍感だったからという理由だが。
感謝しようと思う。褒められて成長した、だから私も褒めて人を育てなければと改めて感じた。褒めて欲しい彼に悩んだ末、こういう世の中の仕組みに気づけたこと、幸運に思える。彼に感謝し、また私の周りに感謝し、私は貢献していける人間になろうと感じた。
27歳、もういい歳なのだから。